1945年8月6日、広島に原子爆弾が落とされた。強い放射能をもつ黒い雨が降り、爆心から離れた地域の人たちも被ばくした。しかし、未だに一部は被ばくを認められていない。その人々が起こした裁判で勝訴の一因となった「増田雨域」はどのようにしてつくられたか。気象学者増田善信30年の軌跡。
◆黒い雨(くろいあめ)とは、原子爆弾投下後に降る、原子爆弾炸裂時の泥やほこり、すすなどを含んだ重油のような粘り気のある大粒の雨で、放射性降下物(フォールアウト)の一種です。
◆広島市では、主に北西部(下記参照)を中心に大雨となって激しく降り注ぎました。この黒い雨は強い放射能を帯びているため、この雨に直接打たれた者は、二次的な被曝が原因で、頭髪の脱毛や、歯ぐきからの大量の出血、血便、急性白血病による大量の吐血などの急性放射線障害をきたしました。大火傷・大怪我をおった被爆者達はこの雨が有害なものと知らず、喉の渇きから口にするものも多かったといいます。原爆被災後、他の地域から救護・救援に駆けつけた者も含め、今まで何の異常もなく元気であったにもかかわらず、突然死亡する者が多く出ました。水は汚染され、川の魚はことごとく死んで浮き上がり、この地域の井戸水を飲用した者の中では、下痢をすることが非常に多かったといいます。
◆従来、広島において黒い雨の降った範囲は、当時の気象技師の調査などに基づき、爆心地の北西部に1時間以上降った「大雨地域」(南北19km、東西11km)と1時間未満の「小雨地域」(南北29km、東西15km)だとされ、国はそれに基づき「大雨地域」在住の被爆者にのみ健康診断やがんなどの特定疾患発病時の被爆者健康手帳の交付を行ってきました。しかし、実際にはその地域よりはるかに遠い地域でも降雨が報告されており、この基準に対する批判が多く出されていました。
近年になって降雨範囲が従来よりはるかに広いことが広島市による被爆者の聞き取り調査により判明しました。さらに、広島大学原爆放射線医科学研究所の星正治教授らが2008年から2009年にかけて行った調査により、爆心地から8km離れた「小雨地域」の土よりセシウム137を検出しました。
これらの事実を受け、広島市では2010年度から2年かけて改めて原爆投下当日の気象状況を元に黒い雨の降雨範囲のシミュレーションを行うことを発表しました。広島市は降雨域の拡大を厚生労働省に求め、これによって、被爆者の援護対象の拡大などが期待されましたが、厚生労働省の有識者検討会は2012年1月20日に、「降雨域を確定するのは困難」との結論を出しています。
※以上「Wikipedia」より引用しました。
※下図は、「黒い雨」の降雨地域と原告の被爆地を示したものです。(作成/「黒い雨」訴訟を支援する会)