裁判の意義


大越和郎被団協事務局長

放射線被害の隠蔽と過小評価との闘い

 

              大越和郎(被団協事務局長)

 大越さんは 5歳の時、戸山村(現安佐南区)で原爆投下後の「黒い雨」を浴び、1977年に被爆者健康手帳を取得。ここ10年余り、県被団協で被爆者支援にとりくんでいます。      


米国による被害の隠蔽

 

 米国はマンハッタン計画で「放射線の人体への影響に強い関心」を示しました。原爆投下直後、米国は原爆被害について日本軍や科学者の調査データーを提出させました。

 放射線被害を熟知しているマンハッタン計画の副責任者ファーレル准将は「九月上旬現在、広島・長崎では原爆放射能で苦しんでいるものは皆無」と原爆報道を禁止し被害を隠しました。
 1947年開設のABCCの目的は次の核戦争の準備のためでした。これに対し「被爆者をモルモットにするな」と撤去要求デモが60年代に2度も行われました。

 

原爆傷害調査委員会(ABCC)

原爆傷害調査委員会(1955年頃)

  

原爆傷害調査委員会(Atomic Bomb Casualty Commission、ABCC)は、原子爆弾による傷害の実態を詳細に調査記録するために、広島市への原子爆弾投下の直後にアメリカ合衆国が設置した民間機関

 

放射線被害をめぐる攻防

 

 1954年3月のビキニ水爆実験を機に原水爆禁止運動が拡がり日本原水協、日本被団協が結成されるなど運動の前進で「原爆被害者の医療に関する法律」 が成立しましたが「水爆被害者」は切り捨てられました。その後の運動の前進により被害に即し被曝地域の拡大などすすみました。しかし、1980年の「基本懇答申」は「戦争被害受忍論」とともに「被爆地域の指定は十分な科学的根拠に基づいて行われるべき」と大きく後退させました。
 これを打ち破ったのが、306名の原告が闘った原爆症集団訴訟の勝利でした。初期放射線被害に限定し、残留放射線、内部被曝を無視した「国際基準」の見解を指弾し低線量・内部被曝を認める判断をしました。
 2009年8月政府と被爆者団体は「今後訴訟の場で争う必要のないよう定期協議の場で解決する」と「確認書」を交わし、官房長官が「謝罪」しました。しかし、政府は若干の手直しをしただけで「定期協議」はほとんどされませんでした。

 

新たな闘いに

 

 そのような中で、福島原発事故による放射線被害が発生しました。被害を認めれば政府も東電も多大な負担を求められます。そのことからか政府は巻き返しに出ました。
 「確認書」の合意が実施されないため被爆者は新たに提訴し闘わざるをえなくなりました。
集団訴訟の判決が定着し放射線被害の基準となってはならずと35人の御用学者を募り、その法廷に「反論書」を出しました。
 「黒い雨」訴訟は、ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ・フクシマと続く日本における放射線被害とそれとの闘いの中にあります。裁判官に低線量・内部被曝を認めさせるか否か、重要な問題となっています。

(文責 大越和郎) 

 


 

 

厚労省の

「原爆体験者等健康意識調査報告書」検討会は

「黒い雨は2種類」という事実を無視

 

           増田 善信(黒い雨の研究者)


 

 やや古い話だが、2012年7月18日に厚労省は一つの報告書を発表した。それは広島市が2008年に行ったアンケート結果「原爆体験者等健康意識調査報告書」をもとに、2010年7月に広島県、広島市及びその周辺自治体が国に要望した「被爆地域拡大」に答えるために9回も開いた検討会の結果をまとめたものである。この報告書の主要な部分は、黒い雨の地理分布についてのワーキンググループの報告「遠距離地域であるにも関わらず爆心地近くの降雨開始と同時に降りだしたとの不自然な回答や、降雨の開始時刻や継続時間のばらつきが大きく、黒い雨体験の報告の確からしさを検討するにはより多くのデータ数が必要」を引用し、「今回の調査データから黒い雨の降雨域を確定することは困難であると考えられた」として、被爆地域拡大の要望を切り捨てた点である。

 

しかし、これは「黒い雨は2種類あった」とい事実を知らなっかったことから導いた結論である。黒い雨は、いずれも強い放射性物質を含んでいたと考えられているが、原爆爆発直後にほぼ同心円形に四方に拡がったキノコ雲から降った雨と、原爆爆発後の大火災によってつくられた巨大な積乱雲から降った雨の2種類あったのである。前者は広島県下の各地、雨が降らなかったといわれた倉橋島、江田島などでも観測され、色は白ないし泥色で、雨量も少なく、比較的早い時刻に降った。一方、後者はいわゆる「黒い雨」で、火災による煤を含んでいたので黒く、雨量も多く、主に爆心の北西ないし北に集中していた。

 

この「黒い雨は2種類」の事実は、宇田報告にも述べられているが、筆者は論文「広島原爆後の”黒い雨”は何処まで降ったか」(『天気』19892月号)で、「遠距離であるのに、爆心近くと同じ降雨開始時刻」とか「降雨開始時刻や継続時間のばらつきが大きい」という事実から2種類の黒い雨を発見したのである。

ところが驚いたことに、この検討会やワーキンググループの委員は、この「黒い雨は2種類」を用いて検討した形跡が全くないのである。恐らく知らなかったのであろう。「アンケートは信用できない」と称して「被爆地拡大に」の要望を葬り去ったのである。再検討する以外にないと思う。


 

 

 

連帯メッセージ

「黒い雨」は「いま」を見るレンズ

 

            難波健治

           (さよなら原発ヒロシマの会)


 

 「さよなら原発 ヒロシマの会」という市民団体が発足したのは、東京電力福島第一原発事故が起きてから11カ月後の2012年2月でした。その年の10月5日、会が呼びかけて「ヒロシマ・アピール・ウォーク」が始まりました。毎月第1、第3金曜日の夕方に「脱原発」を訴えながら歩く「市民デモ」です。
 そのデモが今年5月20日、100回目を迎えました。記念すべき節目だから少しでも多くの人が参加できるようにと、金曜日夕方ではなく、翌土曜日の午後2時から行動しました。原爆ドーム前で集会をし、その後、中国電力本社前まで歩きました。いつもは広島市役所東の国泰寺公園を夕方6時に出発し、中電本社前を通って平和公園入り口の元安橋まで歩いているので、ほぼ逆のコースです。
 ドーム前集会には、福島原発ひろしま訴訟原告団長の渡部美和さん、伊方原発運転差止広島裁判原告団長で被爆者の堀江壮さんも駆けつけてくださり、あいさつをいただきました。
 福島市から、生まれ育った広島に避難して7年目に入った渡部さん。提訴から2年が過ぎ、原告団は13世帯33人に増えました。しかし、6年を超える避難生活を通して「事故前の暮らしと人間関係を取り戻すのは無理。私自身が変わらざるを得ない」と気づいたそうです。「一度降り積もった放射能は、私が生きる時代になくなることはない。放射能とともに生きる覚悟を求められ、どう生きるか、模索する日々が続いている」と訴えました。
 堀江さんは「被爆者だからこそ被曝の恐ろしさは身をもって知っている。日本には現在、使用済み核燃料は1万8千トンもある。処理しても数万年から10万年、再処理しなければ10万年から20万年、生活空間から完全に離しておかなければならない。縄文時代が紀元前1万年ごろだから、とてつもなく長い期間、私たちの子孫は、思い荷物を背負っていかなければならない」と語りました。
 おふたりの話を聴いて私は、「さよなら原発 ヒロシマの会」ができる前の012年夏、広島在住の詩人、アーサービナードさんが語った言葉を思い出しました。
 「いま広島は、水面下でせめぎ合いを続けている。ヒロシマを活かすのか、活かさないのか。その岐路に立っている」。そして、8・6平和宣言で広島市長が「黒い雨」の地域指定拡大を訴えてきたことを取り上げ、「3・11は低線量被曝、2次被曝、内部被曝の問題をクローズアップさせた。だから国は『黒い雨』地域の拡大を絶対に認めない。認めたら、その判断は福島に波及するからだ。そういう国の姿勢に対し、広島は命がけでたたかう気があるのか」と私たち広島市民に迫ったのです。
 「黒い雨」問題は、広島と福島は同じであることをわかりやすく、教えてくれています。だからこそ「黒い雨」問題は、「さよなら原発」市民運動の原点でもあります。